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マエケンの作品置場
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RMの慟哭
プロローグ

朝の八時を少し回ったころ、JR赤羽駅の埼京線プラットホーム。上り下りの列車がひっきりなしに滑り込む。大量の人間を吐き出し、また吸い込んで走り去ってゆく。
大抵の人は無表情で、やや不機嫌そうに俯いている。

「――7番線に新宿渋谷経由、りんかい線直通、新木場行きが参ります。白線の内側までおさがり下さい」

構内アナウンスが入る。
プラットホーム中程に喫煙エリアがある。 桑山晴彦はその朝も、その場所で煙草を吸った。灰皿で燻っている煙りを避けるうち桑山は、線路際の白線を超えてしまう。近くにいた駅係員が白線の内側へ入るようにうながした。桑山は一瞬鋭い視線を駅係員にぶつけると、吸っていた煙草を線路へ投げ捨てた。

その時だった。
黒っぽい身なりの中年過ぎと見える男が、すっと桑山に近づいた。
 男は、何事か短く桑山に問いかけた。
桑山は面倒くさい様子で振り返る。
 新木場ゆき上り列車の銀色の車体が滑るようにして入線してくる。

 桑山のすぐ後ろで列車を待っていた佐田章子は、その一連の様子をもっとも近くで目撃したひとりとなった。
「最初、若い人が煙草を投げ捨てたので注意しようとしたのかなって思ったんですけど……でも何か尋いているんで、それがよく聞こえなかったんです。松がなんとか、とか……『松戸に行きますか?』て尋いているようにも聞こえて。埼京線が松戸に行く訳がないから変な人だな、喧嘩にでもなったら怖いなって思ったんです。若い方の人は一見してすぐ切れそう、というか危ない感じがして……。いえ、言い争いになるとか、そんな余裕はないです。ほんの数秒間のことですから」

 事件の後、佐田章子は警察の事情聴取に応じてそう話している。
桑山は、何かを言った。男の問いに応えた。何と言ったかはわからない。佐田章子も内容は聞き取れなかったと証言している。

突然であった。

 男は桑山の腰のあたりを両腕で抱え持ち、そのままふたり一緒にプラットホームから身体を投げ出す格好となった。

「相撲の決まり手にあるでしょ。相手の背中に食いついて押し出す、送り出しっていうんでしたっけ。あんな感じでホームから飛び出しちゃったんです」

 桑山は男とともに佐田章子をはじめ、列車を待っていた人たちの視界から忽然と消える。次の瞬間、上り列車が滑り込んで来た。

列車が急ブレーキをかける鋭い擦過音が響く。
 佐田章子は悲鳴を上げた。血の気を失って、すとんとその場に尻餅をついた。
 線路を挟んだ反対側、六番線宇都宮・高崎線ホームで宇都宮行き快速ラビット号を待っていた山根玲子は、鋭いブレーキの音に驚いて前方を見る。山根玲子は、桑山と男が飛び降りた位置から二、三十メートルばかり進行方向、新宿よりのベンチに座っていた。
山根玲子はベンチを立って、ホームの端へ進み出た。車両はようやく停止した。
「人が落ちたぞ!」
誰かが叫んだ。玲子が線路を見る。ほとんど金色に髪を染めた若い男が、埼京線側から転がり出るようにして隣の宇都宮・高崎線側の線路で倒れている。

 若い男はしきりに口を動かしている。眼球がくるくると動き、何度か瞬いた。玲子ははっきりとその光景を見た。
「人が落ちたって言ったけど、ああこの人は助かったんだ」
とっさにそう思い、玲子はほっとした。が、それも束の間であった。

 その瞬間は静かであった。
構内アナウンスもなく、救急車のサイレンもなかった。まるで時が停止したかのように、人々も無言のままであった。
 静寂の中で、玲子はある音を確かに聞いた。 ごり、ごりという低いくぐもった音である。

 何の音だろう?
 玲子は思った。金髪の若者を見る。はっとした。音は、くだんの若者が発していた。若者は、線路の砂利を噛んでいる。それは若者の歯が、砕ける音だった。

 が、驚いたのはそれだけではない。玲子は若者を見て、あることに気づいた。

 その瞬間、冷たい手で首をぎゅっと締められるような感覚があった。息が、止まった。若者には、胴体がなかった。鎖骨の下あたりで轢断されていた。
 彼は肩の一部と首だけとなって尚、砂利を噛んでいたのである。

この事件の後、山根玲子は不眠や電車に乗れないという恐怖症に陥った。また、時としてあの、ごり、ごり、という音が耳について離れないという症状に悩まされる。結局山根玲子はこの事件の目撃をサイコ・トラウマ(心理的外傷)とするPTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断され、精神科医と心理カウンセラーによる治療を受けることとなる。


××××××××××××××

冷蔵庫を開けた警視庁赤羽署捜査課係長佐治亙警部補は、そのものの存在に気づき言葉を失った。これまで水死体や腐乱死体を何度か見たことがあったが、これほどまでの衝撃を受けたことはなかった。冷蔵庫の中に閉じ込められていた臭気が一気に拡散したらしく、猛烈な臭いが顔面を突き刺すようだ。吐き気がした。

「――田中、ちょっと」
 相棒の田中巡査部長を大声で呼んだ。別室にいた田中はすぐに現れた。佐治警部補は開け放たれた扉の中を、目で指し示した。田中巡査部長は息を飲んだ。
それは人間の頭部、つまり生首であった。頭髪などからおそらく若い女性と思われた。それが大皿に乗せられて、ラップでくるんである。

 まるで晩餐のメインメニューとして準備されているかのように。
この家の主は買いだめをしない主義らしく、小ぶりの冷蔵庫には大したものはない。数種の調味料と卵、そして納豆の三個パックが件の大皿の隣りに置いてある。そのコントラストが、犯人の異常性を示しているようだった。 首は後頭部と顎の線に沿って切断されている。冷蔵庫に鎮座しつつも横柄に見下しているようにもみえた。両眼は半ば飛び出しており、舌が歯の間から零れている。全体的に大きく腫れ上がっており、生前の顔貌を想像することは困難であ
った。

同行した鑑識課員が現状で何枚もの写真を撮る。その後、佐治は慎重に大皿を冷蔵庫から出す。かなりの重量を感じた。
ラップの上から何かが張り付いている。手袋の指で慎重に摘まんだ。ポラロイド写真だった。佐治はダイニングテーブルに置いた。
「何か慰霊碑のようですね」
 と田中が言う。御影石の碑を写したもので、他には何も写りこんではいない。碑文は『大東亜戦争殉難者慰霊の碑』とはっきり読めた。





 きっかけは一匹の犬だった。
 数年まえ、飯田武司は柴犬の成犬が地域のミニコミ誌で新しい飼い主を求めていることを知り、もらい受けた。犬は以前の飼い主に虐待を受けていた。しばらくボランティア団体が世話をしていて、元々の名前がわからなってしまったので、飯田はリョウマという名を付けた。
その犬が今年の春に、老衰で死んだ。その後、飯田はことあるごとにその犬を想って泣くようになる。ほとんどひと晩を泣き明かすこともあったという。それが三カ月ほども続いたので、さすがに自分でも変だと思い『遠山メンタルクリニック』を訪れた。

『遠山メンタルクリニック』を選んだ理由はとくにないという。通勤に利用していた赤羽駅の近く、程度の基準で電話帳から選んだと聞いている。
長年パートナーとして過ごした動物を失うことによるストレスは、時として肉親を失った衝撃に等しい場合がある。しかし飯田武司の場合は「自分でも変だ」と感じていることに何らかの問題の存在を予感させた。

遠山沙英はカウンセリングの中で夢の分析をした。それが功を奏したのか、飯田の症状は軽快となった。それが二カ月まえのこと。 夏の終わり。七階建てマンションの最上階。窓から見える街は午後の陽光に炙られている。かすかに蝉の音がきこえた。クーラーがきいて室内は涼しかったが、沙英は手のひらに汗をかいていた。
沙英は飯田武司のカウンセリングに至った経緯などをふたりの刑事、佐治と田中に説明した。

 事件は昼のTVニュースで知った。この日はオフで昼前までベットにいた。沙英は不眠症、正確には不眠恐怖症で、へたをすると昼夜が逆転してしまうこともある。
ニュースではトップの扱いだった。

「――今日午前八時ごろ。JR赤羽駅埼京線ホームで、ふたりの男性が線路に転落。ふたりは走ってきた上り電車にはねられ、全身を強く打って即死しました。亡くなったのは埼玉県浦和市の建設会社社員桑山晴彦さん二五歳と東京都北区の予備校講師飯田武司容疑者五五歳のふたり。目撃者の証言などによりますと、飯田容疑者が桑山さんを抱きかかえるようにして突然転落した、とのことです。ふたりは互いに面識もない様子で、また現場で言い争ったようなことない模様です。警察では、自殺しようとした飯田容疑者が何らかの理由で桑山さんを巻き添えにしたのではないかと見ています。
 一方、飯田容疑者の自宅を捜索したところ、若い女性の死体の一部が発見されたました。この女性は飯田容疑者と同じ棟のマンションに住む無職の高山みどりさん二六歳とみられています。警察では飯田容疑者を被疑者死亡のまま殺人と死体損壊、遺棄の疑いで書類送検する方針です。

飯田容疑者は一三年まえの一九九〇年にアルコール依存症に起因する精神障害の一種、アルコール幻覚症による傷害事件を起こしており、今回の事件との関連を調査中です――」 沙英はサーバーからコーヒーを注いでいた。カップから溢れたのにも気づかず床をコーヒーで濡らし、左手に軽い火傷を負った。一瞬、宙をさまよっているような感覚があった。

(――これは現実だろうか?)

 飯田武司は沙英のクライエント(来談者)であった。クライエントが殺人事件を起こし自殺する――カウンセラー、臨床心理士としては全く最悪の事態だった。

何をしたらよいか、判らなかった。
 沙英は飯田の印象を思い返していた。飯田武司は内向的で自己抑圧の傾向が強いが、真面目な性格で社会生活を営む上で何らの問題もないように思えた。ただ、アルコール依存症の既往症があることは判らなかった。
煙草を立て続けに吸い、ようやく警察に行くべきだという結論を得た。そして身支度をしているうちに警視庁赤羽署のふたりの刑事の訪問を受けたのだ。
「飯田の夢というのは、どんなものだったんでしょう」
佐治は静かな口調で言った。佐治は三十代半ば過ぎに見えた。田中は三十前後だろうか。質問などは、終始年かさに見える佐治が主導していた。
 沙英は小さく頷いた。A4サイズの二穴の用紙を佐治の前に差し出した。葉書ほどのメモ紙が張り付けてある。メモ紙は几帳面な文字で埋められていた。

沙英は心理学者としてはユング派を信奉していた。ユング派は夢分析を重視する。沙英は初回のカウンセリングの最後に、次回は「夢」を書き留めて持ってきてほしい、と依頼したの
だ。

『〇月〇日の夢
 川辺の道 恐怖 渦巻き リョウマ
川辺の細い道をひとりで歩いている。川の水量は多い。しかもだんだん増えているようだ。不安になる。でも、どうしてだか逃げようとしない。行かなければならない、という義務感のようなものがあるからだ。

しかし川の水はどんどん増えてくる。流れも速くなる。もう濁流だ。早く逃げていればよかったという気持ちになる。後悔する。さあ逃げよう、と思う。ふと、川の水面を見る。渦巻きがある。しかも、だんだんと大きくなる。飲み込まれてしまう、と恐怖を感じる。見ると、渦に何かが飲み込まれて行く。それはリョウマ(犬の名前です)だった。「ああリョウマ」と叫ぶ。だがリョウマはぐるぐると渦の中心に向かって流されていく。助けようか、と迷う。だが渦の中に飛び込んだら私も死んでしまうだろう。どうしようかと迷っているうちに、とうとうリョウマの姿は見えなくなってしまった。やはり助けるべきだったと後悔するが、どうにもならない。私は渦を見つめながら途方にくれていた』

冒頭の単語の羅列はキーワードだ。夢は見た直後に記録しておかないと、すぐに忘れてしまう。だが朝、全体を文章にする時間はないので幾つかのキーワードを書き留めておく。そうすると後で不思議と夢の内容を思い出す。沙英は夢を文章にするコツを伝授し、生真面目な飯田はその通りに実行したのだ。

A4の方はカウンセリングのドキュメントで、この時の沙英の夢解釈が記録されている。『クライエントの訴える症状、不安発作、悲しみ等に関連して興味深い夢。「川辺の細い道」はクライエントのこれまでの困難な人生を表しているように思える。また「濁流の川」はクライエントの人生を脅かしている不安を象徴しているよう。だがクライエントはその道を進むことに「義務」を感じており、これは困難を克服して進むというクライエントにとってよい暗示に思える。一方渦巻きは直接的には「死及び再生」を象徴しており、犬の死に際して無力であったことへの後悔の念が現れている。しかしこの犬は単に犬ではなく、何か別のものを象徴している可能性がある』 佐治は一文字ずつ拾うように丁寧に読むと、となりの田中へ用紙を回した。

「いま明らかになった情報を付け加えれば、人生を脅かしている不安とは、アルコール依存症と幻覚症で、義務と感じていることは、アルコールに依存しないという意志の現れだろうと思います。しかし、問題なのは犬です。恐らくこの犬は単なる犬ではない、ということです」
「どうしてそう考えるのですか」

佐治の切れ長の眼が、沙英を見た。
「犬の死にしてはストレスが強すぎるように思えるからです。これは飯田さん自身もそう考えていた。そもそもわたしにカウンセリングを依頼したのも『たかが犬の死でここまで泣くのは変だ』という思いがあったからです」 ふたりの刑事は同じように頷いた。こんどは田中が尋いた。
「じゃあこの犬は何なんですか?」
 沙英は首を左右に振った。
「わかりません。ただ――飯田さんにわたしの夢の解釈を伝えたら、少しの間じっと考え込んでおられました。それから少し雑談のような感じになってカウンセリングは終わったんです」

次回の予約が入っていたが、その数日前に「お蔭様で症状が改善されたので、次回の予約はキャンセルしていただきたい」という内容の手紙が律義な飯田らしく、菓子折りに添えて届けられたのだった。

本当に症状が改善されたのならば、飯田は犬が象徴している何ものかの存在に気づいたのだろう。そしてそのものと向き合ったに違いない、と沙英は考える。その考えを沙英は刑事たちに伝えた。

「まあ、犬のことはとりあえず置くとしよう。これをお預かりしてもよろしいでしょうか」
佐治は夢解釈の紙を示した。沙英は頷いた。 本来カウンセラーには守秘義務があり、本人の承諾がなければカウンセリングの記録などの重要な個人情報は第三者に開示することができない。しかしこの場合はクライアントも死亡しており、また事件の重大性から警察への協力は必要である、と判断したのだ。
「もしよろしければ、飯田さんの病歴や事件のことを差し支えない範囲で教えていただくことはできないでしょうか」
 沙英はふたりの刑事の交互に見て尋ねた。 佐治と田中は顔を見合わせる。軽く頷き合っ
た。田中が手帳の項を繰った。

 まず赤羽駅の事件。これまでの調べでは、ふたりの間にはやはり面識はなく、特に駅構内で争った様子もない。ただ、飯田が桑山晴彦に「松がなんとか」もしくは「松戸に行くか」と尋ねた可能性がある。埼京線が松戸に行くはずがないから、妙な話しではある。ましてや飯田は赤羽から池袋の予備校まで毎日通勤していたのである。
ところが間もなく新たな事実が判明した。飯田武司は過去にアルコール幻覚症により障害事件を起こしていたのである。
 さらに飯田の自宅を捜索したところ、冷蔵庫から女性の頭部が発見された。女性は飯田と同じ棟のマンションに住む高山みどり(二六)だった。飯田と高山みどりとの接点も同じ棟のマンションに住んでいるという以外には、確認されていない。
頭部、つまり生首は皿に乗せられてラップに包まれており、マンションに隣接する公園内にある慰霊碑のポラロイド写真が添えられていた。高山みどりの遺体は、高山の自室の浴室で両腕両脚が切断された状態で発見された。こちらは死後四八時間あまりが経過していると見られる。
また、飯田の自宅近くの飲食店では飯田が前日夜に飲酒をしたとの目撃情報があった。 つまり飯田武司はアルコール幻覚症による重篤なせん妄状態の中、高山みどりを殺害し、さらに桑山晴彦を道連れに自殺した、と考えられている。

田中は飯田の大まかな経歴についても説明した。飯田は広島県出身で地元の国立大学の教育学部を卒業した後、広島市内の県立高校の社会科教諭となった。学生時代から大量飲酒の傾向があったという。二七歳で広島市立病院で医療事務職員だった脇坂栄子と結婚。そのころから酒乱癖があらわになる。その後、妻が浮気をしているのではないかという妄想に取り憑かれて繰り返し暴力をふるう。三七歳で離婚。三九歳で飲酒がもとで高校の同僚に軽傷を負わせる。逮捕され、免職となる。事件後反省し被害者にも補償を行ったことで情状酌量され、起訴猶予となる。上京して学習塾の講師となるが、アルコール依存が激しくなり、数日自宅に籠もって飲酒し続けるようなことが何度か繰り返す。

 そして事件は起きる。
数日間の大量飲酒の後の禁断症状による幻覚状態の中、飯田は自宅から転がるように外へ飛び出す。通りかがった小学生の男児をバットで殴りつけ重傷を負わせてしまったのだ。

「何で儂に死ね言うんじゃあ」と叫んでいたという。男児の悲鳴を聞き付けて駆けつけた通行
人らに取り押さえられ、逮捕された。「アルコール幻覚症」と診断され、不起訴となるが精神病院へ法的措置として入院させられるとことなる。その後症状が軽快して退院、しかしその反動のように大量飲酒をして再入院を繰り返した。十年ほど前に久里浜にある国立療養所を退院。以来入院歴はない。

 田中は手帳を閉じる。「悲惨な人生ですね」とため息とともに言った。
「アルコール依存症さえなければ、教頭か校長にでもなっている年齢だ」
と、佐治が続いて言った。

「アルコール依存症はよく登山に例えられるんです。頂上へ至る道は数知れずあるが頂上が近づくにつれ、道どうしお互いの距離も縮まっていく。アルコール依存の度合いが進むほど、症状も、環境も、似通ってくる。みんな同じように人生を蝕まれて、最後は全てを失う。悲惨な人生はこの病気の特徴と言ってもいいくらいです」

沙英は煙草に手を伸ばした。何度も試みたが、煙草はどうしても断てない悪癖だった。喘息の発作を起こしながらも、神経が高ぶった時には欠かせない。
 これも確かに依存に違いない、と沙英は思う。ニコチン依存症。アルコールではなくニコチン依存症であれば、飯田武司の人生も違ったものになっただろうに。

「しかし若い命を不条理にも断たれた被害者こそ、悲惨です」
強い口調で佐治は言った。沙英は神妙な面持ちで、頷いた。
「飲酒についてはどうですか。カウンセリング中にそうした兆候とか、予兆とか、もしくは飲んで現れたとか、お気づきの点はありませんか?」
佐治は訊いた。沙英はすぐに首を振った。「まったくありません。飯田さんは終始紳士的で、真面目そのものでした」

「すると、その頃はまだ飲んでいなかったと」
「そう考えていいと思います。今回の事件がアルコール幻覚症によるものだとすれば、それ以前に大量飲酒があるはずです。連続飲酒発作と言ってもいいくらい。この病気の原因はアルコールをコントロールできないところにあるんです。大量に飲酒する人がアルコール依存症ではありません。依存症の人は飲みたいときに飲みたいだけ飲む、ということができない。それが健康的なアルコール常飲者との違いです」
「しかし飯田はひとり暮らしだ。家でこっそり飲んでいたということはあり得るんじゃないですか」

田中が言った。
「勤務状態はどうだったんでしょうか」
「予備校の方は全く問題なし、です。無遅刻無欠勤。ただここ最近は病院に行くために……東十条の大学病院に通っていたそうですが……何度か講義を休んでいたそうですが、それも正式に届けをした上での休講ですから」 佐治が応える。
その意味するところはひとつだ、と沙英は思った。
「飯田さんは久里浜を出て以来断酒しているのだと思います。一度アルコールの罠に捕らわれた人間は適量を飲むということが難しいんです」
「じゃあなぜ飲んでしまったんだろう。十年間も我慢してきたのに」
シャツのポケットから煙草をまさぐりながら田中が言った。
「強いストレスでしょうか。アルコールの力を借りてストレスから逃避しようとすることも依存症に陥るきっかけとしてはよくあることですから」
「ストレスで思い当たることは?」
 佐治が尋く。沙英は首を振った。
「犬の死かあ、まさかなあ」
 田中が応えた。
「また犬か。どうしてもそこへ行き着くか」 佐治が天井を仰いで、ため息まじりに言う。「犬は別なものの象徴です」
「何の象徴なんでしょう?」
 佐治は切り返すように訊いてくる。
「……わかりません。飯田さんは何かに気づいたようですが、教えてはくれませんでした」 沙英は俯いたまま、応えた。
「まあ、こちらでも精神科医に協力を依頼しますから、いずれ明らかになるでしょう。ところで――」

佐治は沙英を正面から見据えた。
「――遠山さんはカウンセラーということですが、何か資格をお持ちなのですか」
「臨床心理士です」
「それは医師や看護師のような国家資格ですか?」
「いえ、国家資格ではありません」
「政府の外郭団体や自治体によって認可されるとか」
「臨床心理士は日本臨床心理学会が認定する資格です」
「それでは完全に民間の資格ということですか。いま流行の探偵士とか、鍵診断士とかと同じ――」

「――臨床心理士は」
佐治の言葉を遮るように、沙英は続けた。「大学院の修士課程で臨床心理士の資格を持つ者に指導を受け課程を終了するか、五年以上の実務経験で受験資格を得ます。その上で臨床心理学会が実施する試験にパスしなければなりません。単に研修を受ければよいというものではありません」
沙英は佐治を見た。
「――失礼しました。これは余計なことを申し上げた」
佐治はそう言うと、軽く頭を下げた。気まずい緊張感があった。それを破るように、ふたりの刑事が席を立った。刑事たちは沙英に礼を述べた。
「また何か思い出すようなことがあったら、赤羽署の方へご連絡をお願いします」
 玄関口で佐治が言った。扉の隙間から夏の熱気が侵入してくる。東京の空気はクーラー室外機の放射熱を大量に飲み込んで、まるで怒っているように思えた。
佐治が言外にいいたかったことは、沙英にはよく判った。医師でもない者が精神病患者を扱うことへの危惧を、治安を担う者のひとりして感じたのだ。
臨床心理士は精神科医と密接な連携のもとに仕事をしている。症状が重篤であれば、精神科医師への受診を勧める。もしさらに病状が進んで自傷や他傷の恐れがあれば、精神科医師の診断に基づいて入院など措置に協力することもある。また逆に、精神科医師からの紹介でカウンセリングを行うこともあった。(――しかし)
飯田武司に対するカウンセリングでは、これほどの重大事件を惹き起こすような兆候はまったくなかったと言っていい。
(それとも何か重要なことを、見落としていたのだろうか……)
沙英は煙草を銜えた。紫煙を吐き出すと、宙を漂うそれをぼんやりと見つめた。





刑事たちが去った後、沙英はテレビを見た。各局が放送する午後枠のワイドショウでは予定を変更して飯田武司の事件を扱っていた。近ごろよくマスコミに露出している精神科医たちがコメンテーターと称して、アルコール幻覚症という素人には耳慣れない病気について解説していた。
沙英は、アルコールの虜となって格闘している人たちへの偏見に繋がらなければいい……と不安に思った。

キャスターの男性が言った。
「……われわれもホームで電車を待ったりする時に、何かこう不安になって後ろを振り返ったりするんじゃないかと思うんですが」
そして、精神科医の発言に沙英は慄然とする。

「容疑者は直前に臨床心理士によるカウンセリングを受けていたという情報もありましてねえ。通常このような大事件を惹き起こすということは、それ以前に病気がかなり進んでいると言わざるを得ない。まあ残念ながらその臨床心理士の方にはこの種の病気に対する知識と経験が不足していたんでしょうな。何でもまだ二十代の女性だという事ですが……」 キャスターがあわてて補足する。
「――まあ若いことや女性だということは、関係がないでしょうが」
精神科医も言い過ぎたと思ったのか、もちろんです、と言ってしきりに頷いた。
沙英はテレビ局の情報の早さに驚いた。と同時に寒気にも似た恐怖を感じた。幾つもの見えない影が、ひたひたと迫っているような思いがした。
「――二十代は言い過ぎよ」
 沙英は、精神科医にリモコンで狙い撃ちするようにして、テレビを消した。沙英は今年で三三歳になる。大学院の修士課程を修了し臨床心理士の資格を取得して、七年目だった。どちらかと言えば童顔で、化粧っ気も少ないためか若く見られることが多い。

電話が鳴る。嫌な予感がした。――電話を取る。
「……こちらは『週刊〇〇』ですが。遠山先生ですね。飯田武司さんの事件についてお伺いしたいんですが……」
沙英はその場で電話を叩き切りたい衝動を、ようやく堪えた。誠実に且つ毅然と対応しなければ、と思った。
(――さもなければ臨床心理士としてのキャリアに傷が付く……どころではない。無能の烙印を押されてしまう)
「――その件でしたらわたしたちには守秘義務がありまして、お話しできません。警察にはすべてお話ししてありますので、警察の方からお聞きになってください」
記者は、
――守秘義務といっても依頼者はもう亡くなっている訳ですから。
――メディアを使って積極的にご自分の正当性をアピールされた方が、貴女のためではないでしょうか。
などと言って、なおも食い下がる。沙英は同じ回答を繰り返した。
ようやく電話を切ると、五分と経たないうちにまた電話が鳴る。今度はテレビ局だった。その次は駅売りの夕刊紙……。
 同様の対応に何とか終始し、電話を切る。 胃がきりきりと痛んだ。記者やレポーターが大挙して押しかけてくる映像が浮かんだ。沙英はあわてて身の回りものをリュックに詰め込んだ。しばらくの間ビジネスホテル住まいとなる覚悟をした。

玄関の鍵を二か所にかけた。誰かに会いそうだったのでエレベーターは使わず、階段を降りた。このマンションの七階を沙英はひとりで占有している。2LDKのプライベートエリアと広めのワンルームほどのクリニックがある。これを沙英は両親から譲り受けた。もともと両親は赤羽駅西口近くのこの場所で、明治以来四代続く写真館を開業していた。ひとり娘の沙英が大学院進学が決まった年に、両親は写真館の廃業を決めた。店とその奥が住居になっていた細長い土地に七階建てのマンションを建設し、自分たちは沖縄の石垣島へ移住してしまったのだ。
修士課程修了後、沙英は東京都の社会福祉施設に勤務したが、同僚や先輩との人間関係に疲れ二年で退職してしまった。悪化した不眠恐怖症との兼ね合いもあってそれ以来、フリーランスとなっている。現在は主に高齢者のための介護付きマンションや北区内の高校などでカウンセリングを行っている。また周辺で開業する精神科医からの紹介患者も受け入れていた。
収入は不安定で、家賃を払って赤羽に住もうと思ったらワンルームでもぎりぎりだろう。 自宅からワンブロックしか離れていないビジネスホテルにチェックインした。資料を取りに戻るかも知れないし、時々様子を見に行かなくてはならない。マスコミはそれほど自分に興味はないのかも知れない。思い過ごしであれば、すぐに戻るつもりだ。ホテル代も惜しかった。
事件が起きたのが八月中だったことは、まだ幸いだったかも知れない。週が変われば九月になる。三つの高校でのカウンセリングの予定が入っている。今週ならば、ある程度自由に動ける。

――その間に何とかしなければならない。さもないと、九月からの高校での仕事だってNGになりかねない。
でも、どうしたらいいのだろう?

 わからなかった。
 心の片隅で、自分はこの仕事には向いていないのだ、と叫んでいる自分がいた。ますます眠れなくなるぞ、と。
 沙英は狭いシングルルームのベットに座り、俯いた。何かを振りほどくように、首を大きく左右に振った。顔を上げた。とりあえず、自分を信じることにした。とすれば、前提はひとつしかない。

――飯田武司はアルコール幻覚症ではなかった。





夕刊紙の記者が奇妙なことを言っていたのを思い出した。
「――これは心霊スポット連続殺人なんです。超心理学の方はどうです。興味ありますか?」

すぐ切ろうとしたので、反応はしなかったが印象に残った。どうやら高山みどりの首に添えられていた慰霊碑の写真のことを言っているらしかった。あの件は刑事から聞いただけで、新聞やテレビには報道されていなかった。記者のスクープなのだろうか。
 沙英はホテルの一階に降りて、宿泊客のために設置してあるPCに向かった。
検索エンジンサイトに「北区」「心霊スポット」と入力する。一五〇件以上がヒットする。心霊関係は人気らしい。沙英はさらに「慰霊碑」と入力し、絞り込んだ。

『《呪われた横町》
 ――北区稲付町公園北側の住宅地
 昭和四〇年代、北区稲付町公園北側の住宅地十軒のうち、わずか一年の間に七軒が葬式を出した。七二歳で老衰で死んだ者もいれば二二歳で自殺した者もいる。さらにエリアを少し拡げれば近隣ではこの十年の間に亡くなった人の数は三〇人を超すという。中には一家四人がほぼ三年おきに自殺して、絶えてしまった家もある。
 稲付町公園は昭和二〇年八月一〇日の空襲で亡くなった人たちの遺体を四〇〇体以上も埋葬した場所であった。赤羽周辺では昭和二〇年に三度の空襲を受けたが、最後の八月一〇日が最も被害が大きかった。埋葬された遺体はその後昭和二六年に掘り起こされたが、六年もの年月が経過しており判別が困難で、また全滅した家が多かったためか、ほとんどが無縁仏として葬られたという。
 きちんと供養されなかった呪いが、地域に災厄を招いているのではないかと考えたひとびとは、資金を募り慰霊碑を建立した。その後、葬式の数は激減した……』
 この稲付町公園は、心霊写真が名所荒川の赤水門、防空頭巾の少女が現れるという明治通り沿いの裁判所と並んで北区の三大心霊スポットだという。この慰霊碑が高山みどりの生首に添えられていたポラロイド写真に写っていたものらしい。
赤羽で生まれ育ったが、小学校から麹町の私立女子校に通っていたせいか、周辺の地理に暗い。しかしそこは地元。大まかな地理を頭に入れた。

沙英は再び検索エンジンサイトに戻る。
「桑山晴彦」と入力した。三五件ほどがヒットする。
飯田武司がアルコール幻覚症ではないとすれば、ふたりの間には何らかの接点があると考えなければならない。飯田は桑山晴彦という男を意図して殺害したのだ。桑山のことを知りたかった。出身地はどこか。どういう青年だったのか。不良だったのか。優等生だったのか……。
劇団扉座秋公演役者一覧……桑山晴彦……。 ――桑山は芝居などやるのだろうか。違う。劇団の所在地が福岡市博多区だ。
 平成一三年度沼津市市民大会陸上競技、中学生の部男子百メートル……第三位桑山晴彦記録一一秒九八……。
――違う。年齢が合わない。
沙英はひとつずつ確かめていく。別な方法を考えようか。と言っても、いったいどういう方法があるのか……。頭の片隅でそう考え出した時だった。
 私立いわき工業高校平成八年度卒業生……機械科……桑山晴彦……。
 ――平成八年度ということは卒業は翌年の三月。現在は二五歳。年齢的には合う。
 沙英はこの桑山に賭けてみることにした。福島県の新聞社を探す。福島民放新聞社がひっかかる。同新聞社のホームページで記事の検索をする。
「――埼京線赤羽駅で道連れ殺人」
 今日の夕刊の記事なのだろうか。詳細を読む、をクリックする。概要が表示される。記事の最後にこうあった。
「……桑山さんはいわき市の出身。いわき工業高校を平成九年に卒業し東京都の準大手建設会社桜澤建設に勤務していた。……」
「――ビンゴ」
 沙英はささやくように言った。
 桑山晴彦の手掛かりはいろいろ見つかった。いわき市、桜澤建設。葬儀は出身地のいわきで行われるのだろうか。参列者として紛れ込めば、いろいろなことが判るかも知れない。 沙
英はブラウザをいったん閉じて、アクセスの履歴を消した。キャップを目深に被り直し、ホテルを出た。

 喧噪と熱気が圧倒する。どこか白っぽい夏の夕闇が、街を覆いはじめていた。
焼き肉屋から漂い出たエスニックな香ばしい匂いが鼻の回りにまとわり付く。そう言えば、今日は朝から何も口にしていないことに気づいた。

「――まったく何という日だろう」
 沙英は独り言をいう。その声は街の活気の中に溶けてゆく。
このまま食事を摂らなければ、禁煙とともに長年にわたり失敗し続けた目標七キロ減のダイエットにも、成功してしまうかも知れない。そんなことを思い、笑った。
 そして沙英はこれから、北区の三大心霊スポットのひとつに向かう。こんな時に一緒にいてくれる男のひとりもいない事実に、沙英は淋しさを味わった。
「女はあんまり学歴が高いと、縁遠くなるよ」 沙英が大学院への進学を決めた時に、母は独りごとのように、そう言った。母の顔が、頭をよぎった。
大学は付属の女子校からエスカレーター式に上がらずに、受験した。有名な難関大学であったが、合格することができた。
両親はひとり娘に婿を取って、写真館を継いでほしいと願っていた。しかし沙英は、両親にとって結局よい娘にはなれなかった。
 両親が写真館を畳んでしまったのは、沙英に負担をかけたくないと考えたのだろう。三十を過ぎた今頃になってようやく理解できた。
 ――しかし。近ごろよく思うことがある。大学院など行かずに、見合いして結婚していたら……。今ごろは子供の二、三人もいて、今よりオバサンくさくなってるかも知れないが、きっとそれなりに幸せなのではないか。 少なくとも、こんな夕暮れ時にひとりで心霊スポットへ行くことはないだろう。

沙英は赤羽東本通を、東十条方面へ歩いた。 何台ものクルマが沙英を追い越していく。 沙英は気弱な思いを心の片隅に追いやった。気持ちを切り替えようと思った。このままでは仕事が来なくなってしまう……。
 それと――。
 もうひとつ沙英の心でさかんに自己を主張している思いがあった。
 飯田さんはなぜ、桑山晴彦を殺したのだろうか?
夕闇が迫る。東本通りを左へ、墨田川の方へ折れる。このあたりは大きな工場が多い。工場はもう操業を終えたのか、路地は急にひと気を失ったようだ。暗く感じた。気のせいか、背筋が震える。

 目指すマンションはすぐに見つかった。
路地に挟まれた一区画を占める、かなり大きな建物だった。高さは五階建てほどだろうか。赤茶色のレンガを模した外壁が聳えて、周辺のせいぜい二階建ての個人住宅を睥睨しているようにも見えた。
 外壁沿いに歩いて角を曲がるとエントランスが見える。階段を何段か上がった先が正面玄関のようだった。
テレビ局の中継車が一台停車していた。何人か、報道関係とおぼしき人たちの姿が見える。腕時計を見る。七時を少し回ったところ。六時代のニュースでライブ映像を流したのだろうか。喧噪はないが、なごりのような雰囲気が漂っている。
 沙英は迷う。足を止める。
(だいたいあたしは何をしに来たんだろうか……)
少しでも手がかりをと思ったが、飯田や高山みどりの部屋へ入れる訳もない。若い男性に追い抜かれる。派手な印象からテレビ局のスタッフに見えた。抜かれ際、わずかに返り見たような気がした。事件の起きたマンションのエントランス付近で戸惑う怪しい女に思われたに違いない。

 沙英は足を進めた。ここで引き返したら、追って来られそうな気がした。
階段を上る。右手にメールボックスが並んでいる。巨大な蜂の巣のようだ。飯田武司の部屋番号を知りたかったが、この中から探すには時間がかかりそうだった。
「どうかしましたか?」
 背中のあたりが声がした。沙英はびっくりして跳ねるように振り返った。エントランス左の小窓が開いて、女がひとり顔を出していた。沙英は咳き込んでしまう。喘息の発作かも知れない。

「――あんた、大丈夫?」
 女は聞いた。老人というにはもう少し間がありそうな年格好だった。ここの管理人らしい。ポシェットから吸入薬を抜き取る。銜えてワンプッシュする。数秒で気道が拡がる。 ようやく落ち着いた。
「大丈夫かね」
 女は部屋から飛び出してきた。
「高山みどりさんの知り合いの者なんですけど、部屋がわからなくて……」
「ああ、そうかね。高山さんのお知り合いかね」
女の声のトーンが上がった。
沙英は上体を折って、喉のあたりを手のひらで押さえた。直感のようなものがあって、呼吸は落ち着いているのだが、発作を口実にしてもう少しこの女と話してみようと思った。「……すみません、喘息の発作で。ちょっと休ませてもらえないでしょうか」
 女は両眼を見開いて沙英を見る。一瞬間があって、ああ、いいよ、と言った。両目の下に濃い隈があって、どことなくタヌキを連想させた。
 管理室には、先客がいた。
若い男である。NBAのどこかにチームらしいランニングシャツに半ズボン。テレビのバラエティー番組を見ていた。
「孫ですわ。近くおるもんで、たまに遊びに来てくれるんです。どうぞ座って」
 小窓に面した椅子に腰掛ける。中は冷房が効いていた。女はコップに水を持ってきた。「わたしは川向こうの戸田から来てるんですがね。これを飲んだら落ち着くでしょ」
沙英はコップの水に口を付ける。カルキの味が強くした。少し含むと、礼を言ってコップを返した。
「さっきのはメプチンだね。あれ、あんまり吸いすぎると心臓に負担がくるんだ。わたしはほら、看護婦だったからさ」
 孫という男は、笑いもせずじっとテレビを見入っている。無神経に明るいテレビの笑い声と、ブラウン管のカラフルな光りを反射する無表情な彼の顔が、何か奇妙なコントラストを生んでいる。
「本当はもう帰ってる時間なんだがね。今日はもう、午前中から警察やら新聞記者やらテレビやらが来てさあ」
 女は流し台の前の丸椅子に腰をおろした。煙草を取り出すと、銜えて火を点けた。
「みどりさんは、何号室ですか」
「ああ、二一八だよ」 
女は今日一にちで何度も尋かれて覚えてしまったのだろう。確かめもせずに答えた。
「まったくあの娘も気の毒にねえ。何であんなことになっちまったのか。……あんたは、やっばりあの娘と同じ店で働いていたのかい」 女は尋いた。孫がその言葉に反応したように、沙英を見た。その視線が、服の上から身体をまさぐるような感じがした。寒気がした。「ああ、いえ、今は違うんですけど」

 ああそうかい。と女はぞんざいな感じで応える。高山みどりは無職ということだったが、風俗ででも働いていたのだろうか。
「あの、亡くなった場所は違うんですよね。たしか飯田とかいう人の……」
「ああ、飯田さんの部屋は五〇五だよ。けど、今はどっちの部屋も警察が来てて入れないよ。まあ本人はいないし、わたしらも合鍵持ってる訳じゃないから、どっちみち入れやしないけどね」
「いえ、いいんです、部屋番号がわかれば。お花でも供えようかと。明日出直します」
「ああそうかい。近いの」
 沙英は、ええと曖昧に応えた。煙草をふかす女の横顔は、随分と疲労している印象があった。沙英は立ち上がり、ついでにもうひとつ聞いてみた。
「このあたりで、食事ができるところってありますか」
 妙なことを言うと思ったのか、タヌキ顔がびっくりしたように沙英を見上げた。殺された友人のマンションに来て、近くで飯を食って帰る女……。

「いま時分だったら、いなさかねえ。出て、右行ってすぐんとこだよ」
沙英はマンションを後にする。その店はすぐに見つかった。
『大衆食堂いなさ』
 と消えかかった看板に大書きしてある。引き戸に貼った紙に、定食、小料理とあった。大衆食堂とは今時めずらしい。だが、どこなくあの生真面目な飯田武司のイメージと合うような気がした。

中へ入った。太ったおばさんが、いらっしゃい、と言った。客はいなかった。今しがた帰ったところらしく、おばさんは定食のお盆を両手で運んでいた。つけっ放しのテレビが巨人戦を放送している。沙英はカウンターに座った。ショウガ焼き定食とビールを注文した。 ビールを飲みなから、沙英はおばさんに飯田のことをそれとなく聞いてみた。するとおばさんの顔色がとたん曇った。
「今朝から警察やらマスコミやら、そのことばっかりだよ。おたくはレポーター?」
もう帰ってくれと言わんばかりだったので、沙英は慌てて否定した。
「いえ知り合いです。個人的な」
「じゃあ、予備校の先生かい?」
 沙英は頷いた。今日は風俗嬢から予備校教師までと忙しい。
「――あの真面目な飯田さんが、あんなことをするなんて信じられなくて」
試しにそう投げかけてみる。
「――ほんとだよ。信じられないよねえ」
と話に乗ってきた。
「もう五、六年になるかねえ。飯田さんがそこのマンションに越してきたからだから。予備校が終わって戻るのが九時半ころで、ウチは閉店が一〇時だからさあ、三十分ぐらいだけど、定食を食べて新聞を読んでさあ。だいたい毎日来てたねえ」

 犬のことも聞いてみた。
「そうだったよねえ。あの犬ねえ。子供みたいに可愛がってたからねえ。その話をする度に泣いてさあ。あんな優しい人が、あんなことをするなんて、やっぱり病気なのかねえ」
ショウガ焼き定食そっちのけで、おばさんは喋る。どうやら飲酒をしたのも、この店のようだった。
「――飲んだって言ったってあんた、たった一本だよ。定食のサバが焼けるまでの間、まあ一〇分ぐらいかねえ。カップ酒を一本きり。それだけよ。たったそれだけの酒でねえ……。殺された方だって、息子ぐらいの歳だよねえ」
 驚いて、沙英は聞いた。
「――息子さんがいらしたんですか?」
「――いや、もしいればの話しよ」
心霊スポットの話を聞いてみたが、おばさんはよく知らないようだった。慰霊碑の場所だけを教えてもらった。

 ショウガ焼き定食を食べ、沙英はいなさを出た。会計をしながら、沙英は最後に尋ねた。
「飯田さんはどこかへ飲みに行ったんでしょうか」
「警察にも同じことを聞かれたんだけどねえ。飯田さんが帰るとちょうど閉店でしょう。暖簾を下げるのに、一緒に出たのよ。外へね。そのままマンションへ帰ってったけどねえ。まあ一回帰ってから、出掛けたのかもねえ」

慰霊碑はマンションの隣の稲付町公園の片隅にひっそりと鎮座していた。稲付町は赤羽の南側、現在は西が丘、赤羽西、赤羽南となっている地域の古い町名だった。時代が移り町名はなくなってしまったが、わずかに公園にその名をとどめている。
――大東亜戦争殉難者慰霊の碑。御影石というのだろうか、表面が滑らかに黒っぽい石にそう刻んである。夜の公園はひと気もなく寂しかったが、心霊スポットというほどの鬼気迫る印象はなかった。
昭和四〇年代と言えばまだ人々に戦争の記憶が生々しく残っていた時代。きちんと供養してやらなかったという、どこか死者に対して後ろめたい気持ちが生き残った多くの人たちの心理の深層にあったのだろう。それが、たまたま続けざまな葬式が出た時に表面化してきたのだ、と沙英は思った。
 人は理解し難い現象が起こると、それを時分なりの理屈で説明をつけたがる傾向がある。悪いことは全部祖先の霊の仕業だとか、えせ宗教が困った人に付け込むのも、こうした人間が本来もっている心理によるものだ。
 ユングが世界各地の神話の共通性に注目して、人間が普遍的に持つ共通の深層意識について研究していたが、怪談というものの成り立ちにも、似たような人間の共通意識があるのだろうか。
家族全員が自殺して絶えてしまった家庭の方は、もっと簡単に説明がつく。
自殺というのは、遺伝するからだ。自殺者を非常な高率で出している家系は多く存在する。もちろん遺伝子の問題ではなく、自殺しやすい気質が遺伝するからだろう。離婚にも同じようなことが言える。親が離婚している子供の離婚率は、そうでない場合より格段に高い。だから離婚や自殺が多い家系に生まれた者は、自分の代で食い止めるのだ、という意識を持たなければならないと沙英は思う。
もっとも今のところ結婚もせず、子供も作らない自分に言えることではないが……。

飯田武司がこの怪談話しに捕らわれて、無関係の高山みどりを殺害したとは、どうしても考えられない。アルコール幻覚症は大量飲酒の後の断酒による禁断症状がきっかけとなって起こる。もっとも有名な症状は小動物幻視だろうか。要するに蜘蛛が腕を這っていくとか、ネズミが床を埋め尽くしているとか、そういう類いだ。

これが事実なら飯田武司は強い暗示にかかっていたのか?
 例えば、終末思想に捕らわれたあげ句の集団自決。似たような事件は、そのくらいしか思いつかない。
生首を皿に乗せてラップで包むというやり方も、猟奇を通り越して、屠殺とか解体といったどこか感情のない作業の延長上にあるような印象がする。

高山みどりの事件は、とりあえず桑山晴彦の事件とは分けて考えた方がよいのではないか、と沙英は思った。

――それにしても前日一合の日本酒しか飲んでいないとすれば、やはりアルコール幻覚症
の発症は考えにくい。
 他で飲んだのだろうか?
しかしなぜ、飯田武司は酒を飲んだのだろう。しかも一合だけ。まったく謎だった。
 ただ翌日の行動の考えれば、あれが計画殺人とすれば、彼の飲酒は、賭けだったのかも知れない。予定通り桑山を殺せるか、酒に飲まれるか……。

 翌朝、六時まえ。沙英は前日に買っておいた小さな花束をふたつ持って、例のマンションに向かった。昨夜は極度に疲労していたせいか、睡眠薬も飲まずにぐっすりと眠った。 この時間なら警察やマスコミ関係者やあの管理人にも会うことはないだろう、と思った。花束は誰かに会った時のための小道具だ。また風俗嬢になればいい。
それにしても室内にも入れないのに、行ってどうするのか。
 自分でもうまく説明できなかった。扉の前に立ち、死者の言葉に心を澄ませてみよう、そんな想いだった。もうひとつ加えれば、一度やろうとしたことは、きちんとしないと前へ進めない――子供のころからそういう性質があった。こだわり性。クレッチマーに言わせれば粘着性気質。

 エントランスの階段を上る。左側の管理人室の小窓には薄汚れたアイボリーのカーテンがかかっていた。階段で二階へ。高山みどりの部屋はすぐに見つかった。花が供えてあったのだ。
深い茶色のドア。丸いノブ。その下に鍵穴が二か所。別に変わったこともない。――あたりまえだ。
死者の声も聞こえなかった。これもあたりまえだ。心霊スポットの影響か、どうも思考がオカルトっぽくなっているような気がした。金属の格子が嵌まった窓。その向こうはキッチンなのだろう。数種類のおたまやフライがえしが整然と下がっているのが、曇りガラス越しに見えた。
 案外きちんとした性格だったのだろう。風俗か水商売かはわからないが、いつも部屋を整頓し、想い人が来れば手料理でもてなすことができる、可愛い女だったのだ。
 料理できない、片付けられない、眠れないという三重苦のわが身を顧みて、うらやましく思った。

花を置き、軽く手を合わせた。次は五階へ。これはさすがにエレベーターを使った。
五〇五号室に献花した人はいなかった。二一八号室と同じドアだ。窓の向こうには料理に使う道具類は見えず、コップに刺さったハブラシがひとつ、ぽつんとあった。
 鍵穴を見て、ふと気づいた。鍵穴の脇に小さな穴が開いている。蟻が這い出るにしても小さい、よほど注意しないと見過ごしてしまいそうな穴だ。
 花を玄関前を置き、手を合わせる。気になって、二階へ高山みどりの部屋へ戻る。鍵穴を見る。あった。同じ穴が開いている。

――これはいったいどういうことだろう? まったく見当もつかなかった。
 帰りに赤羽駅のキオスクに寄り、新聞や今日発売になった週刊誌を買ってホテルに戻る。 一般紙は社会面トップの扱いで事件を詳しく報じている。だが昨日から夕刊紙や一般紙の夕刊、ワイドショウと情報を漁っていた沙英には、特にま新しい事実はなかった。スポーツ紙の一部が『心霊スポット殺人?』と見出しを打っていたが、昨日の夕刊紙の受け売りのようだった。
 週刊誌は誌面にするまでの時間が少なかったのだろう、アルコール依存症と幻覚症の解説がメインを占めている。『アルコール依存度自己診断シート』がついていたのには、思わず苦笑した。沙英のことは実名ではなく『美人臨床心理士(三三)』と紹介されていた。やはりカウンセリング時の判断が甘かった可能性があることが指摘されていた。さらにこの事件を契機に、アルコール依存症をはじめ精神病に起因すると思われる不起訴を含めて犯罪逮捕歴のある人間についての監視を強化すべきだろう、と記事は結ばれていた。
もし行政の施策が変更されるようなことになれば、アルコール依存症や統合失調症(精神分裂病)などの既往症を持つ人たちに不要なプレッシャーを与えて更生を阻害することにもなりかねない、と沙英は思った。

 ――それにしても、美人臨床心理士とは。美人という形容詞を冠されたことに悪い気はしない。しかしそもそもこんなことで世間の注目を面白半分に受けるのは真っ平だった。美人だけならまだしも、巨乳だの爆乳だのといった男の視点の下品な形容が堂々とまかり通るこの国は、やはりどこか病んでいるのだろう、と思う。

が、今はそんなことはどうでもよい。
 桑山晴彦の通夜が今夜、いわき市の市営葬儀場で行われることが福島民放新聞のホームページで判った。沙英にとって飯田と桑山の接点を探す、多分最初で最後の機会だ。
ホテルをチェックアウトして、自宅へ向かった。いくらだらしのない女でも、ジーンズにTシャツでは通夜には出られない。
一階のエントランスで郵便受けを覗く。数通の請求書と宅配すしのチラシに混ざって一枚のメモが入っていた。

『至急電話を下さい。佐治』

 とあり、電話番号が書き込んであった。〇一一〇で終わる番号だった。なるほど警察署は百十番なのか、と妙なことに関心した。  エレベーターを待つ間、乗って七階で扉が開く時には多少緊張した。カメラを担いだ人たちが乱入してくるのではないかと想像したが、そんなこともなかった。どうやら美人臨床心理士に対するマスコミの興味も長続きしなかったらしい。
部屋に戻るとすぐに赤羽警察署に電話を入れた。佐治は不在だったが、折り返しすぐ電話を入れるという。
 喪服を着て、それらしく多少の化粧をした。一泊ぶんの最低限の着替えをバッグに詰めた。準備が終わってから、煙草を銜えていると電話が鳴った。佐治だった。

「例の強いストレスの正体がわかりましたよ」
佐治は開口一番にそう言った。沙英はとっさに判らなかった。
「アルコール依存症のきっかけになるストレスですよ」
「――ああ、そうですね」
 沙英は思い出した。飯田が断酒をやめたとしたら強いストレスがきっかけではないか、と言ったのだ。昨日のことなのに、随分と昔のことのような気がした。
「――癌ですよ。飯田は癌に冒されていたんです」





上野発午後三時の『スーパーひたち』いわき行きに沙英は乗った。

飯田武司は胃癌を患っていた。発見が早かったのと、癌自体さほど悪性ではなかったため手術さえすれば生命に別条はなかったいう。「飯田の世代は癌イコール死病のイメージがあるから、相当のストレスだったのではないでしょうか」
 と佐治は言う。しかし沙英は飯田の経歴を考えればむしろ逆で、死などまったく恐れてはいないのではないか、と言った。
 佐治は答えられなかった。
 次に沙英が質問をぶつけてみた。
 まず飲酒の件。いなさのおばさん以外に飯田の飲酒を目撃した人物は、いまだ発見できていないという。また、自宅からも飲酒の痕跡は出てきていない。
「もうじきですよ。必ず発見できるはずです」 と、佐治は強気に言った。それは恐らく佐治個人の見解ではなく、捜査の方針がその方向なのだろう、と感じられた。
続いてドアの小さな穴の件。
「よく気づきましたね。あれはサムターン廻しの跡ですよ」
「サムターン廻し?」
「過去に空き巣に入られた痕跡です。ピッキングだと開けられない種類の鍵もあるし、開けられるけど、鍵を掛けられないでしょ」
「はい……」
「サムターン廻しだとどんな鍵でも開けられるし、施錠もできる。だから空き巣に入られたことにすぐに気つかないことが多いんです」「はあ……」
「ドリルで鍵穴の横に極く小さい孔を開けて、そこから曲がったピアノ線を差し込む訳です。サムターンというのは、内側から廻して施錠するあのツマミです。あれを直接廻してしまうんです」
「今回の事件とは――」
「何とも言えません。飯田が自分の家で実験をして――ドアの構造は同じですからね――高山殺しに使ったのか。それとも窃盗団があのマンションを狙っていて、ふたりとも気づいていなかったか、われわれとしては後者の方が可能性があると考えています」
「つまり無関係だと」
「その可能性が、高い」

こういう可能性はないだろうか?
何者かが高山みどりを既に殺害していて、死体の処理に困っていた。そこへ偶然に飯田武司の事件を目撃するか、いち早く発生を知る。――異常な事件だ。だからもう一体ぐらい死体があってもおかしくないだろう。咄嗟にそう考えて、サムターン廻しで(高山宅への侵入と同じ手口)飯田の部屋へ侵入し、首を皿に乗せて冷蔵庫に仕舞った……。
犯人は高山と飯田の両方を知っていて、事件を報道よりも早く知ることができる人間ということになる。
沙英はその考えを佐治に言わなかった。
すべては飯田武司と桑山晴彦の接点が見つかってからだ。そう思った。

いわきに着いたのは五時すぎ。
今年は冷夏と言われていたのに、夏が終わろうとするここ数日から急に暑くなった。怒気を含んだような西陽が肌を焼く。しっかりとメイクすることなどあまりないので、冷たいおしぼりで顔を拭きたい衝動に駆られた。 ロータリーからタクシーに乗った。葬儀場まではワンメーターだった。電車代ホテル代タクシー代とばかにならない経費がかかっている。無駄にはできない。早速聞いてみた。
「ああ、あの人は、本当は県会議員さ息子なんです。まあ死んだ人のことさ悪くは言いたぐねえが、地元じゃ有名なワルでね」

桑山晴彦の母親は数件のクラブやスナックを経営している地元では有名な女傑だという。母親は独身だが、桑山の父親は県会議員を七期連続当選して県政のドンと言われている男であることは、いわきでは公然の秘密なのだとそうだ。桑山は中学高校と不良グループのリーダーとして地元を荒らし廻ったらしい。だが警察も彼にはなかなか手を出せなかったという。

「そんなことってあるんですか。警察が出を出せないなんて」
「ここは東京じゃないんです。裏と表と、いろんないろんな力関係があって……」
ほどなく葬儀場に着いた。沙英は千円札を差し出し、珍しくお釣りは結構です、と言った。領収書をもらうのも忘れ、沙英はタクシーを降りた。

大きな葬儀だった。花輪が所狭しと並べられ、よく見ると県会議員や国会議員、県知事の名前まである。沙英は受付で香典を差し出し、記名をした。

『東京都北区 夢野沙理』
 と書いた。咄嗟の思いつきだった。
「日本で一番有名な魔女の名前よ。魔法を使ってでも必ず見つけてみせる」
 そう思った。
会場に入る。参列者にための椅子がすらりと並んでいる。読経が始まるまでまだ時間があるからか、まだ席はだいぶ空いていた。
 沙英は壁際に立って見渡した。桑山と同じ歳くらいの、一見して純朴そうな印象のある青年の隣に空いた席を見つけた。沙英はその席へ滑り込むようにして、座った。
こんなことなら香水でもつけてくればよかったと思った。海外旅行の土産にもらったプアゾンだかシャネルだかが未使用のままどこかにあったはずだが……だが、どうせ探し出すだけでひと苦労だったろう。
少ししてから、声を掛けてみた。
「大きなお通夜ね」
青年の耳元で囁くように言った。
「ええ。桑山のおふくろさんも親父さんも、いわきじゃあ有力者ですからね」
「あなたは、お友達?」
「友達っていうか……中学の同級生です」
「中学生の桑山くんて、どんな人だったの?」
青年は何か驚いたように、沙英を見た。
「貴女は、桑山とはどういう?」
「わたしは埼玉の浦和で小さなスナックをやってるのよ。桑山くん近くに住んでて、よくひとりで来てくれたの」
これは前もって考えていた設定だった。これなら通夜の席に誰も知り合いがいなくても、不自然ではない。
「とにかくリーダーでしたよ。いいことも、悪いことも。まあ、悪い方が多かったですがね。東京では、どんな奴だったんです桑山は」
「……そうね。まあ普通というか」
この設定までは、考えていなかった。青年はその言葉に意外な反応を見せた。
「――桑山が普通ですか。成長したってことですかねえ。あいつが普通に見られるなんて」
鐘が鳴った。導師が入場し、読経が始まる。調査は少し休憩となった。
 桑山の母親は、女傑というイメージからは遠く、ただ痩せて品の良い中年すぎの婦人に見えた。父親も県政のドンというより、どこかの呉服屋の隠居とでもいう風情だ。彼らにとって突然の理不尽な事件によって最愛の息子を失うという事態が、きっと持ち前の精力と毒気を抜き去ったのだろうか。
やがて順に焼香となった。青年とは離れてしまったが、出口付近の人だまりに彼の姿をみつけた。彼の方も沙英を見つけて、近寄ってきた。

「これから皆んなで、お清めというか、ちょっと飲みに行くんですけど、もしよかったら一緒に行きませんか」
 願ってもなかった。
 いわきは飲み屋が多い、と沙英は繁華街を歩きながら思った。小さなスナックやバーがテナントとして入っているビルが密集している。池袋とは言わないが、赤羽より多いのは間違いなさそうだった。
 青年は樽澤と名乗った。一行は一〇人ほどで女性がふたりいた。全員が中学の同級生だという。樽澤たちは馴染みだという、小料理屋に落ち着いた。
 名前を聞かれ、沙英は例の夢野沙理と言ってしまってから、はっとした。だが誰も気づいてはいないようだった。
(……そうか、世代が違うんだ)
 と沙英は納得した。
 ビールを嘗めつつ、沙英は一同の話しを黙って聞いていた。すると桑山晴彦がいかに地元で怪物といっていい存在かが判ってきた。
中学一年の二学期で、桑山晴彦は中学全体を牛耳るようになった。三年になるころには近隣の中学にまでにも桑山の名は知れ渡っていたという。
 高校は県立高校に入学する実力があったにも関わらず、桑山の言うには「シメてやるために」ワルで有名な私立の工業高校に進学し、た。その後一カ月で予言を実現させた。高校時代は暴走族や他校の不良グループにまで君臨していたという。自分が警察の世話になることはなかったが、子分が捕まると父親のコネをうまく使って請け出しをするといった、味な真似までやっていたらしい。
 東京の大学へ進学し就職してからは地元にとってブランクになるが、噂では、本妻の子を差し置いて父親の後継者になるらしい、と言われていたという。
まるで劇画の主人公のようだ、と沙英は思った。

「しかしよお、松郷のことは可哀想なことをしたよな」
 誰かが言った。それまで通夜の帰りとは思えぬほど桑山晴彦の話で盛り上がっていたのが、水を打ったように急に静かになった。
「誰だって?」
沙英は樽澤に尋いた。樽澤は何かを言うが、聞き取れなかった。沙英はもう一度尋いた。かわりに女の子がはっきりとした口調で、答えた。
「松郷隆司、自殺したのよ。桑山たちのいじめに会って」

翌日は朝から雨だった。
 沙英は九時になるのを待って図書館へ行った。新聞の縮刷版のページを繰った。おおまかな日付を聞いていたので、探していた記事はほどなく見つかった。

『平成五年〇月〇日
いわきで中学生自殺
〇日午後六時ごろ、いわき市〇〇町の農道脇の山林で学生服を着た若い男性が首を吊って死んでいるのを、通りかがった人が発見し警察に届けた。死亡したのはいわき市の工務店経営松郷禎一さん(五二)の次男で市立中学三年、隆司さん(一五)。警察では状況から自殺とみて、動機などを調べている。』 沙英は次々に頁をめくる。続報を拾う。
『いわきの中学生自殺事件、いじめが原因か?関係者事情聴取始まる』
『いわきの中学生自殺事件、学校側遺族に謝罪 いじめを認める』
『いわきの中学生自殺事件一転、いじめはなかった?地元警察の発表』
『いわきの中学生自殺事件、学校側訂正会見行う 自殺の原因はいじめではない』
『いわきの中学生自殺事件、遺族は告訴断念』 最後の記事は自殺からほぼ二カ月が経過し

ている。松郷隆司の自殺の原因はいじめではない、とすることで事件は決着していた。
この影には警察への桑山の父親からの圧力、そして生徒たちには桑山本人からの無言の圧力があった。昨夜、それを樽澤たちは話してくれた。
なぜ松郷隆司が狙われたのか?

「松郷はホネがあるって言うか、桑山にシッポを振らなかったんだよな。真面目で勉強もよくできたし、煙たかったんじゃないか」
樽澤は言った。
松郷隆司は小学校六年の時に、母親の再婚で転校している。ただ、どこから来たか、旧姓までは判らない。しかし松郷隆司が飯田武司の息子である可能性は十分ある。隆司の死と同期を合わせて、飯田は断酒している。

 松郷工務店はいわきの中心地から北側へタクシーで一〇分ばかり行ったところにある。 ――正確には、あったのだ。松郷工務店はこの不況で一昨年倒産した、ということだった。松郷工務店の跡地は、さら地となり草が茂っていた。隣家に聞いてみたが、一家は転居して行き先はわからないということだった。また隆司のを聞いてみたが、その家も七年前に郡山から越してきたので、分からないとの返事。
手掛かりを失って落胆しつつバス通りに向かって歩いていると、豆腐屋を見かけた。店の中で豆腐を切っていたおばさんに思い切って隆司のことを聞いてみた。すると意外な反応があった。

「――覚えてるよお、よく豆腐を買にきてねえ。利発な子だったのに、可哀想だったねえ」 と言った。
 隆司の母親について、尋いてみる。
「――名前とか、出身地とか、判りませんか。広島から来たって言ってませんでしたか」
  おばさんは少し考え込んでから、顔を上げてこう言った。
「……そう言えば、自分の両親とも原爆で被爆しているから自分も癌が心配だって、そんなことを言ってたねえ」

沙英は農道から脇に逸れ、雑木が茂る小さな丘を登った。雨はあがっていたが、道は泥濘んでいた。この丘を登りきった辺りで隆司は死んだのだと、豆腐屋のおばさんに聞いた。 佐治にはさっき電話をした。松郷隆司と飯田武司の関係を調べてほしい、と。そして高山みどりの死についての推理も伝えた。
 飯田は桑山にこう言ったのだ。
「松郷隆司を覚えているか?」
それが「松戸に行くか?」と周囲の人に聞こえたに違いない。なぜお前は死ななければならないのか、を飯田は桑山に知らせた。そして、殺した。
 沙英は気づいた。自分が、自分だけがふたりを救える立場にいたことを。

 ――あの夢。
(わたしはカウンセラーとして失格だ)
そう思った。

丘を登った。見下ろした。飛び込んできた景色に沙英は愕然とした。幼稚園だった。今は休日で、子供はいない。ブランコがさっきまで降り続いていた雨に濡れている。

 隆司は家庭の中でも孤立していたらしい。 逆算すれば、両親が離婚した時に隆司は六歳か七歳。彼の短い生涯の中で幼稚園時代のみが唯一平穏で、幸福だったのかも知れない。この場所で隆司は昔を思い出し、死んだのだ。
ふと足元を見る。松の幹に小さな花束が立て掛けてある。それはいつ置かれたのか、朽ちかけて雨に濡れそぼっていた。沙英はそれを置いたのは飯田に違いないと思った。
泥濘みにハイヒールの踵が取られた。松の枝に手を掛けた瞬間だった。
 自殺者はその場所に念を残すという。
 その一瞬、沙英の心に、まるで電流が駆け抜けたように深い悲しみが満ちた。

 沙英は声を上げて、泣いた。
 犬(RyoMa)に名を変え、父の心の奥深くに住んだ少年、RM(隆司・松郷)の慟哭が、伝わった。


        エピローグ


(それにしてもこの一カ月の間、どこへ行っていたんだ。『美人臨床心理士』さんは)
と、佐治警部補は思った。赤羽駅の埼京線ホームにいるから来てほしい、と伝言をもらった。別の現場から相棒の田中巡査部長とともに駆けつけた。

彼女の指摘が事件の解決を速めたことは間違いがなかった。捜査の初動での方向が誤っていたことは間違いないが、軌道修正できない程ではなかったと佐治は考えている。
松郷隆司は飯田武司の息子で、飯田は桑山晴彦を計画的に殺害したのだ。それにしても飯田はなぜは犯行前夜に一合だけの酒を飲んだのか。そのため、捜査は誤った方向へ進んでしまった。佐治はその理由を一度、美人臨床心理士先生に聞いてみたいと思っていた。 一方高山みどりを殺害したのはマンションの管理人加東政子の孫の康之だった。飯田の事件の前々日に康之はみどり宅にサムターン廻しで侵入し、強姦をしようとして騒がれたので殺してしまった。政子は康之をかばい、死体を解体していた。だが当日の朝、出勤途中に飯田の事件を目撃し、あわてて康之を呼び出し同じくサムターン廻しで飯田宅に侵入、首を冷蔵庫に入れた。写真を添えたのは康之だった。彼はこの土地がかつて心霊スポットだったことを知っていて、捜査を撹乱しようとしたのだという。

自供によれば政子は元准看護婦で、六〇年代に相模原の米軍病院に勤務し、ベトナムから空輸されるバラバラになった米兵の死体を縫い合わせる仕事をしていたという。道理で死体の扱いには慣れているはずた。

そのあたりも美人臨床心理士さんの指摘の通りだった。
ホームへの階段を上る。平日の午後、大宮行き快速が出たばかりで、人はまばらだった。 約束とおり中程の喫煙所のあたりに、女がひとり立っていた。遠山沙英だった。
 沙英はわずかにほほ笑んで見せた。痩せた、という何かやつれたように見えた。

「どこへ行っていたんですか?」
沙英はそれには応えない。
「誰かにお話ししようと思ったんですが、やっぱり刑事さんに聞いていただくのが一番いいと思って……済みません、お忙しいのに」
佐治は首を横に振った。ゆっくりと沙英に近づいた。田中はふたりを黙って見ていた。「わたしはあのふたりを助けられたかも知れない、ただひとりに人間だったんです」
 佐治は沙英を見た。沙英は、まっすぐ前を見ている。ふたりは上り線路に向かい、並んで立っている。
「夢の解釈です」
「あなたの解釈は精神科医師もほめていましたよ」

 沙英は大きく首を振る。違うの、と言った。
「あの夢には最後がない。夢の解釈で大事なのは、その夢がどう終わったかなんです。目が覚めたのか、次の夢へ移行したのか。飯田さんは渦を見つめ、不安の中で書くことをやめています。あの夢にはたぶん続きがあった。わたしはそれを確認すべきだった」
「……どう、続くんです?」

沙英は深く息を吸った。
「……飯田さんは渦の中へ飛び込んだんです。人間はつらい思い出を永久に持つことはできない。飯田さんは隆司くんの自殺を自分せいだと感じている。これが飯田さんのサイコ・トラウマです。だがトラウマに居座られたのでは心の均衡が保てない。だから隆司くんは無意識の抑圧によって柴犬に置き換えられたんです。しかし犬の死によって、トラウマがまた自己主張し始めた。飯田さんは耐えられずに渦へ飛び込んだ。今度こそ本当の隆司くんに会うために。この場合の渦は死と再生の象徴です」

佐治は何かを言おうとする、が言葉にならない。

「これは自殺衝動を現した夢です。……わたしはカウンセラーとして失格です」
沙英の肩が震えていた。佐治は沙英の肩を抱いてやりたい衝動にかられた。そうしないと、彼女は崩れてしまいそうだった。

 何と声を掛けてよいか、判らなかった。
ただ佐治は、正直に自分の気持ちを伝えようと思った。佐治はこう言った。
「……少し、休みましょうよ。あなたには休息が必要だ」
佐治は沙英に手を差し出した。そして、優しくほほ笑みかけた。沙英は、佐治の目をみつめた。
                 
              (了)





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西が丘住宅3-4-1での自殺/西が丘住宅3-4-1での自殺

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